パトリシア


 この世に生を受けてから十数年、トラックをはねたこともトラックにはねられたこともなかったのだけれど、今僕は空中を舞っていて、なぜ空中を舞っているのかというと、それは別に背中から羽が生えたからではなく、もちろん尻から羽が生えたわけでもなく、トラックと呼ばれるでっかい自動車にはねられたからであって、冬だというのに奇妙なほど空気が暖かいのは、物凄いスピードで僕と大気とが擦れあっているからなのだろうな、と思ったりする余裕があることに少しだけ驚きながら、そういえば死ぬ間際の人間ってまばたきの一瞬を何分もの時間に感じ取ったりするらしいね、他人事のように考え、そうか僕はこれから死ぬのか。悟った瞬間糸が切れたように時間の速度が元に戻って視界は暗くなる。


 初めて二人で観た映画は、無口でシャイだけどチェインソーが普通の人よりちょっと好きってくらいの殺人鬼が夜な夜な殺人の練習のためにチェインソーを稼動させ、アパートの住人に怒られる様子を描いたホラーコメディだった。「何時だと思ってるのよ!」と太ったおばさんに罵倒される殺人鬼は無口でシャイだから何も言い返せない。おじいさんはそっと僕の手を握って「まるであなたみたいね」と言った。「そうかな?」と僕は言った。「そうよ」とおじいさんは笑った。僕はなんだか頭にきて、売店で買ったポップコーンをおじいさんの両鼻に詰めた。彼はぷるぷると震えて赤くなり、すぐにポポン、と勢いよくコーンがポップした。面白くなって僕は何度もポップコーンをおじいさんの両鼻に詰めた。繰り返すうちにおじいさんは痙攣した。スクリーンでは内容証明をチェインソーで切り刻もうとした殺人鬼が手を滑らせて脇毛を刈っていた。


 初めて飲んだブラックコーヒーは大人の味というよりも劇物だった。劇物というよりも激物か。あまりの苦さに僕は「苦い」と感想を漏らす前にスプシャーと噴き出した。厳密に言えばスブワッシャオーと噴き出した。コーヒーはちょうど目の前に座っていたおじいさんの顔面に直撃した。厳密に言えば眼球に直撃した。おじいさんは「キャア!」と叫んでのけぞった。「何するのよ! バカァ!」と怒るおじいさんの顔は、コーヒーの熱さのせいか桃色に染まっていた。


 初めて二人で乗ったボートはとても小さくて、少しバランスを崩すだけでひっくり返してしまいそうだった。おじいさんは「小さいほうがいいって思える日がいつか来るわよ」って言っているけれど、僕にはとてもそうは思えない。漕ぎ方のコツがなかなかつかめなくて、ボートは何回も転覆しかけた。転覆しかけるたびにおじいさんは「キャハハハハ、あぶなあい」と笑った。笑いながら落下した。池に落下した。彼は泳げなかった。「わたしカナヅチなのよう!」と慌てふためくおじいさんを見て僕も慌てふためき、助けようと身を乗り出したら僕も落下した。僕も泳げなかった。犬かきでもがきながら二人して笑った。


 僕は思い出す。思い出したそばからその情景は消えていく。映画館。チェインソー。握った手。コーン。ポップ。内容証明。コーヒー。スブワッシャオー。眼球。桃色。池。ボート。水しぶき。おじいさん。僕。笑顔。几帳面なペンキ職人がさっさっと、ひとつひとつ、大きなハケで黒く塗りつぶしていく。そして何が消えていったのかもわからなくなっていく。あれは、何だったんだろう。あの人は、誰だったんだろう。誰と一緒にいたのだろう。僕は、誰と一緒に笑っていたのだろう。最後にひとつ、残ったのは、声。


 誰かが僕を呼んでいるような気がする。さすがのペンキ職人も声を上塗りすることはできないらしく困っているようだ。どうしたらいいのかわからずにうろうろしている。「まるであなたみたいね」と声が言った。そうかな、と僕は思う。「そうよ」と声の主が笑う。ちがわい、と僕は思う。声の主は「そうかしら」と言った。僕が何もわかってない子供なのだと決めつけている調子だ。頭にくる。確かに僕はついこのあいだまでデートもナンパもしたことのない世間知らずだったけれど、今は違う。あの人に出逢ってから僕は変わったのだ。あの人? 誰のことだ? 思い出せない。僕にとって一番大切な、忘れてはいけない人のはずだ。君は知ってるのか? 僕は声の主に向かって訊いた。答えの代わりにすっとポップコーンが差し出され、僕の鼻の両穴に押し込められた。すぐに息が苦しくなる。なにをするんだ、と言おうとしたそのとき、コーンが鼻の穴からポップして飛び出した。ぱぱぱぱ、と暗闇に色が戻る。春を迎えて一斉に花開いた桜のように、僕の世界が彩られていく。白く透き通った手のひらが見えた。僕は手を伸ばし、力強く握ろうとした。



「気がついたか!」


 僕はおじいさんに抱きかかえられていた。彼はしっかりと僕の手を握っていてくれた。


「びっくりしたぞ。映画館を出たらいきなりステップしながら『僕を捕まえてごらんなさい』などと言って車道に飛び出してトラックにはねられて吹っ飛んで。止める暇もなかったわい。吹っ飛んだ先でたまたま歩いていた太ったおばさんが受け止めてくれなかったら命も危なかったぞい。どこか痛むか? わしが誰だかわかるか?」


 腕をあげ、おじいさんのあご髭に触れる。正直に言えば全身がかなり痛かったけれど、そんなことはどうでもいいのだ。僕は彼の瞳を見つめながら、さらさらとしたあご髭や頬を撫でた。綺麗だ、と思った。「綺麗だ」と実際に口に出して言ってみた。おじいさんは耳まで真っ赤にさせて、「もう。心配したんだから、バカ」と言って笑った。 


LITTLE BUSTERS
「Patricia」from 『LITTLE BUSTERS』
the pillows' 8th album.