確かめに行こう


 二日続けてインスタント・ラーメンの粉末スープを床にぶちまけてしまった僕が真っ先に思い浮かべたのはニュートンの性器だった。それはふやけていた。まるで今、僕の目の前で、粉末スープの混入を心待ちにしている片手鍋の中の麺たちのように、柔らかく、そして力なく。ごめんな、と僕は呟く。スープ、こぼしちゃったよ。もう君達は醤油ラーメンになることができないんだ。ずっと素の麺のままなんだ。ぼこぼこと沸騰していたお湯から次第に水泡が消えていく。ラーメンたちも己の境遇がわかってきたのだろう。食品として生まれてきた彼らは、ただ、粉末スープが無いというだけで、食品としてのアイデンティティを失う。それは残酷な運命だった。

 ニュートンの性器は勃起したことがあったんだろうか? 僕は思った。そして苦笑した。勃起しない性器などごく一部の例外を除いて存在しない。それが性器である以上、勃起するのだ。もし彼が、林檎を眺めつつ勃起していたら、はたして万有引力の法則は生まれていただろうか。引力に逆らえず地面へ落下する林檎と、引力などもろともせず天を衝く性器。矛盾だ。パラドックスだ。ニュートンの考える科学ではありえないことがありえている。もし僕がニュートンだったら、と思う。とりあえずパニクる。パニクるというのは「パニック」が転じて動詞になった言葉であり、つまりパニックに陥る。パニックに陥るということはつまり我を忘れるので、我を忘れるということはつまり記憶喪失で、つまり自分が人間なのかどうなのかもわからなくなるわけで、つまり脱ぐ。身を包む衣服に、「これはなんだろう?」と疑問を抱き、捨て去るのだ。そして太陽を指す性器と直接対面する。真実だ、と思う。林檎は自分ではない。それはわかる。でもこの棒状の器官は自分だ。繋がっている。林檎はあそこで、ちんこはここ。明確だ。

 触る。温かい。むしろ熱い。震える。感じたことのない衝動が僕を包む。ひゃっほう、と叫ぶ。乳頭を見る。乳頭、と僕は思う。「乳頭」という単語がそのまま正確に再生できたわけではないが、本能的に乳頭だ。つまむ。ひゃっほう。歩き出す。そして走る。どこかにとどまってなんかいられない。とにかく動く。長い髪を振り乱し、原始的認識上での乳頭をつまみ、ひゃっほう、と走る。その間も性器は万有引力に逆らい続ける。いや、引力なんて始めからなかったのだ。全ては完全に、非常に、科学的だ。目で見える。手で触れる。存在している。勃っている。疑いようがない。証明するまでもない。やがて僕はついさっき地面に落下した林檎を発見し、拾う。そして真上に放り投げる。落下してくる。これは違う、と思う。これは科学的じゃない、と。上に行くんだ。僕と繋がっている性器のように、万物は上を目指さなければならない。落ちてきてしまってはそれは科学的に真実ではない。僕は腰をすえ、林檎が落ちてくるのを待つ。そして打つ。屹立した性器で打つ。林檎を打つ。林檎は固い。ちんこも固い。どちらも固い。邂逅。ひゃっほう!……

 ニュートンは結局のところ、彼の性器が勃起するしないに関わらず、万有引力の法則を発見したのだ。考えてみれば当たり前のことだった。ラーメンに入れるはずだった粉末スープはこうして台所の床に乱舞してしまっているし、僕の性器だって、力なく下を向いている。どうしようもなく引力的な状況だ。僕はただ、ラーメンが食べたいだけなのだ。でも万有引力の法則が有効である以上、粉末スープは床に散らばったままだし、片手鍋の中で伸びきってしまった麺は醤油ラーメンになりえないのであり、僕の腹を膨らますものは他に無く、この麺を食うしかないわけで、とりあえず今日中にでも図書館に行ってニュートンの伝記を借り、彼の顔に落書きをしてやろう。ニュートンの髪の毛の味がするラーメンをすすりながら、僕は静かに決意した。


RUNNERS HIGH
「Let's see,if that's true or not」 
from 『RUNNERS HIGH』 , the pillows' 9th album.

ライク・ア・ラブソング


“あなたのことを考えると、とりあえず窓ガラスにキスをしたくなります。なぜなら窓ガラスにあなたの顔が映っているように見えるからです。キスしたあとは窓ガラスを割りたくなります。なぜなら窓ガラスに映ったあなたの顔は偽物だからです。私を騙そうとする窓ガラスは割らねばなりません。しかし実際に割るわけにもいきません。なぜなら窓ガラスがないと虫が入ってくるからです。私は虫が嫌いです。足がいっぱいある時点で嫌いです。同じ理由でイカも嫌いです。タコも嫌いです。阿修羅も嫌いです。あなたが好きです。”


 郵便受けに届いていたラブレターを読んだ僕はひとまず気を落ち着けるために放屁した。役場が通知を出すために使うような茶色く飾りっけのない封筒には宛名がなく、送り主の名前もなかった。消印もない。どうやら直接僕のアパートまで来て投函しているようだ。なのに切手は貼ってある。当然ながら「いったい誰だ、こんなことすんの」と思った。そして時間差で漂ってきた異臭に鼻を曲がらせた。当然ながら「マンモス臭いなあ、誰だよこんなとこで屁ぇこいたの」と思った。「屁をこいたやつぶん殴る」と思った。数秒後、この部屋には僕以外ペットのハムスターしかいないことを思い出した。ハムスターは仰向けに倒れて左足を痙攣させていた。屁をこいたのは自分だ。僕は僕の右頬をぶん殴った。

 とりあえず僕は鼻血を止めるために天井を見上げ、「はくしにもどそうけんとうし」と小声で三回呟いた。そして手紙を読み返してみた。しかし文面は変わっていなかった。やはり差出人の彼女は阿修羅のことが嫌いで、僕のことが好きだった。間違いない、これはラブレターだ。女性からラブレターを貰ったことなんてこれまでの短くも長い人生で一回も経験したことのないので、果たしてどう反応していいものか迷った。ハムスターにご指導ご鞭撻を賜ろうとカゴのほうに向き直ってみたものの、彼(オスなのだ)は空を掴むように前足を挙げたまま失神している。

 自分で決めなければならない。この手紙に対し、どうリアクションをとるのか。差出人不明の手紙に返事を書くわけにはいかない。ならばどうするか。三つの選択肢がある。まず、「上半身だけ脱いで飛び上がって喜ぶ」。次に「下半身だけ脱いで飛び上がって喜ぶ」。最後に「マンモス全裸になって飛び上がって喜ぶ」。そう、僕に出来るのは脱ぐことくらいしかない。そんな不甲斐ない僕をラブレターの送り主はどうして好きになってくれたのか、疑問が浮かんでこなくもないが、気づけば僕は裸で、靴下だけ残して裸で、飛び上がって喜んでいた。


 やった! 俺は、ラブレターをもらったんだ!


 ようやく意識を取り戻したらしいハムスターがむくりと起き上がり、「チィー」と鳴いた。僕は靴下だけ残した全裸の状態でカゴに歩み寄り、「おい、俺ラブレター貰っちゃったぜ!」と自慢した。ハムスターは飼い主の、つまり僕の、最大限に露出された性器を見て歯切れよく失神した。ご主人様と喜びを共有できないとは、飼い甲斐のないハムスターだ。少しだけ落胆する。でも次の瞬間には負の感情は消え去っている。僕は大人の階段を昇ったのだ。もう子供ではないのだ。恋愛という美酒に酔っ払って前後不覚になったとしても文句は言われないのだ。

 どんな子だろう、と想像する。虫が嫌いで、イカが嫌いで、タコが嫌いで、阿修羅が嫌いで、僕のことは好きだと言う女の子。デートするときはわざとお寺に行こう。奈良の興福寺がいい。あそこの阿修羅は国宝ものだ。「キャッ、怖い、阿修羅マンモス怖い」なんて言って僕にすがりついてくる彼女。「大丈夫、僕が君を阿修羅から守る」なんて言ってしまったりなんかしてしまったりしちゃったりする僕。二人の恋のキューピッド、阿修羅。止まらない。もう止まらない。

 再び意識を取り戻したらしいハムスターが車をカラカラと回し始めた。僕はいつの間にか靴下すら脱ぎ捨てた状態、つまり完全裸になっていたのだけど、このままハムスターに話しかけるとまた彼が失神してしまうので、脱ぎ捨てた靴下を性器にすっぽりとかぶせた。そして「なあ、阿修羅カップルってなんかカッコよくないか?」と惚気た。ハムスターは飼い主の、つまり僕の、心もち天を衝く形状になっている靴下性器を見て即座に回し車から落下しそのまま失神した。僕は溜息をつく。ご主人様がこんなにも喜んでいるというのに、ペットがそんな体たらくでどうする。回し車を高速で回転させて喜びを表現するくらいのことはしてほしいものだ。今ここに回し車があったなら僕は回す。嬉しいからだ。嬉しさのあまり身体がひとりでに動いてしまうのだ。この気持ちを伝えたい。誰かに伝えたい。もうここまでくると身体を動かすだけじゃ物足りない。

 手紙を書こう。僕の気持ちをわかってもらうんだ。宛先なんて無くたって構わない。僕の住所だって書かなくても君は知っているはずだろう? そこらじゅうに手紙を出せば、大半の人には悪戯扱いされたとしても、君は、君だけはわかってくれる。僕の気持ちを正直に書くんだ。君のことを考えるだけで胸がどきどきする。窓ガラスに君の顔が映っているような気すらする。思わずキスしたくなる。キスしたあとガラスを割りたくなる。なぜってそこに君はいないからだ。人を騙すような窓ガラスは割れて当然だ。でも割らない。割ってしまったら君の嫌いな虫が僕の部屋に入り込んできてしまう。君の嫌がることだけはしたくない。君が好きだ。


LITTLE BUSTERS
「like a lovesong」 from 『LITTLE BUSTERS』
the pillows' 8th album.

恋のスパイに気をつけろ!


 洗い物をしていたらくしゃみが出そうで出ない状態に陥った。こういった場合、十中八九、「ぴゅうと風が吹いて女子高生のスカートがめくれたけどまあそりゃパンティーじゃなくてブルマーだよね、そりゃそうだよね、自己防衛だよね、自己責任だよね」と、まあ期待するだけ無駄な感じになるわけで、僕は当然くしゃみは出ないものとして洗い物を続けようとしたのだけど、今日は少しだけいつもと勝手が違うみたいでものすごい勢いのくしゃみがものすごい勢いで放たれてものすごく手が滑ってものすごい勢いで茶碗が割れた。

 不意の事故で茶碗を割ってしまったとき、人はどういう叫び声をあげるのだろう。僕は人が茶碗を割ってしまった場面に遭遇した経験がないのではっきりとしたことは言えないが、おそらく「キャ!」だったり「うわ!」だったり「茶碗が!」だったり、その辺の差しさわりのない台詞を選択するのだと思う。僕の場合は「花子!」だった。別に気が狂ったわけではない。花子という名の茶碗が割れたのだから、「花子!」と叫ぶのは自然極まりないことだ。もっとも事実に沿って書き記すならば、「花子!」などという淡白なシャウトではなく「ンはぁぁぁぁなアこぅおぅおォォォォ!」と感情のほとばしりここに極まる状態だったのだが、とにかく僕は「ンはぁぁぁぁなアこぅおぅおォォォォ!」と叫んだ。花子は真っ二つになって流しの隅っこに横たわっていた。あまりの惨状に、僕は台所用洗剤の泡にまみれた手で顔を覆った。泡が眼球に侵入した。僕はシャンプーハットをかぶりながら洗い物をしなかったことを心の底から後悔しつつ痛みのあまり気を失った。

 目を覚ます。ぱちくりとまばたきをする。眼球に残った洗剤の粒子がほどよくシェイクされ激痛が走り再度倒れそうになる。だがそこをなんとかこらえて立ち上がり、流しを見る。花子はやはり割れている。これが夢だったらいいのに、と思う。花子は、僕の、たった一人の味方だった。「おかえり」と言う相手もいない僕を、流し台で静かに見つめてくれていたのは彼女だった。食費のやりくりに失敗しておかずを買えなかった僕を、ちゃぶ台の上でで優しく見守ってくれたのも彼女だった。茶碗に口をつけてお茶漬けをずるずるとかっ込んだのが、思えば僕の初めての大人のキスだった。舌が焼けるほど熱いキスだった。花子。君はもういない。

 ひとしきり悲しみにくれると、今度は怒りで目が赤くなってきた。花子は死んだ。なぜ死んだ? 全て出そうで出ないと見せかけて出たくしゃみが悪い。なぜくしゃみが出た? 誰かが僕の噂話をしたからだ。誰が僕の噂話をした? いったい誰が僕と花子の愛を引き裂こうとしたのだ?

 誰か、いる。誰かが、僕を見張っている。僕と花子の仲を良しとしない誰かが。さっと振り向く。壁。もう一度振り向く。台所。目だけをぐるりと動かして周囲に注意を払う。どこかで誰かが僕の噂話をしてくしゃみを誘発し花子を殺したのだ。僕は流しっぱなしになっていた蛇口の水を止めた。水滴が流し台を控えめに叩く音と僕の呼吸音以外、何も聞こえなくなる。

 目を閉じ、開く。閉じ、また開く。来るなら、来い。花子の恨み、ここぞとばかりに晴らしてやる。それとも、僕の前に姿を現せないというのか。スパイ気取りか、臆病ものめ。尿。尿? 僕は何を考えているのだ。今は花子のカタキを打つことだけを考えろ。息を吸い、吐く。吸い、吸い、吐く。ラマーズ法だ。怖いものなんてない。強いて言えば尿が怖い。尿? 頭を振る。雑念を捨てろ! 流しで真っ二つになってしまった花子のことを忘れたのか。僕のことを愛してくれた花子にあのような酷い仕打ち、許せない。そう、許せないんだ。許せないはずだろう? だから今こうやってくしゃみが出そうで出ない状態に陥りながら敵が現れるのをじっと待っているのだ。くしゃみ? また奴が僕の噂話をしているのか? はは、甘い。子供の手口だ。ふむ、確かに先ほどお前は僕の噂話をすることで僕にくしゃみをさせることに成功した。だがそんな単純なやり方で何回も上手くいくと思ったら大間違いだ。今ここで尿を盛大に放出するのと同じくらい間違っている。だから尿はいい、とにかくだ、くしゃみが出そうで出ないようだけどやっぱり出た、なんてそうそうあるもんじゃない、一生に一度、いや、人類の長い歴史を紐解いたとしても片手で数えられるくらいしか実例はないだろう、それを続けて起こそうだなんて幼稚も幼稚、浅はかすぎて笑いすらこぼれてくる。僕は笑った。大声で笑った。声帯を震わせて出てきた笑い声が再び声帯を震わせるくらいの大声だ。そしてその笑いが頂点に達したかと思った瞬間ぶるっと全身が震えてものすごい勢いのくしゃみがものすごい勢いで放たれてものすごい勢いで僕は失禁した。



「恋のスパイに気をつけろ!」 from 『KOOL SPICE』
the pillows' 5th album.

雨にうたえば

 

 激しくアスファルトを打つ雨の音に目を覚まし、ふわああ、とあくびをしたところ顎が外れたので僕はとてもうろたえた。これはいけない、と呟きつつ(実際は「ほげがひげがい」と発音された)、急いでバスルームの鏡で自分の顔面状態を確認しようとベッドから降りようとして、部屋が水浸しになっていることに気づき、さらにうろたえる。なんだなんだこれ、と毒づきつつ(実際は「はんがはんがほげ」)僕はベッドの上に立ち尽くした。まるでプールだ。床から30センチほどの高さまで、部屋中が水で満たされている。水は僕が眠っていたベッドの上までは届いておらず、そのおかげで僕は眠ったまま溺死せずにすんでいたわけだけど、テーブルや座椅子なんかは完全に水没していて、テレビやコンポや炊飯器やスタンドにたてかけておいたギターなんかは上半分だけ水面から顔を出している状態だ。えらいこっちゃ、と僕は思った。どうしたらいいのか。顎に手をあてて考えてみようとしたが、今の僕は顎が外れているわけで、つまり顎に手をあてたりなんかしたら激痛のあまり失神してしまうことうけあいなわけで、考えることすらできない。

 とりあえずは今出来ることをするしかないだろう。僕はベッドの上に立ちながら、いわゆるひとつの朝立ちをする息子をさすった。トランクスからハミ出そうになるほど身を屹立させた息子は、ふるふると震えた。思いのほか快感だったので、僕は「あふう」と喘ぎ(実際は「はぐふ」)、そのまま崩れ落ち、ベッドの下に落ち、つまり水の中へイントゥし、溺れた。僕は泳げないのだ。顎が外れたままの口内へ容赦なく水が入り込んでくる。昨日床に脱ぎ捨てておいたままだった靴下なんかも入り込んでくる。よくわからないが和英辞書らしき分厚い書物も入り込んでくる。


「助けて!」


 僕は叫んだ。しかし顎が外れているうえ口の中にいろいろ入っていてしかも水中にいるので実際にはよくわからないうめき声をあげただけであった。こんなところで僕は死ぬのか、と思う。深さ30センチの水たまりに落ちたくらいで大げさな、とあなた方は笑うかもしれない。しかしそれは水の恐ろしさを知らない半魚人の言い草だ。僕は半魚人じゃなく人間なのだ。毎日、湯船につかるたび、生と死の境をさまようほどの、由緒正しき陸上生活人間なのだ。水中では正常な判断ができるはずがない。前も後ろも上も下もわからない。こっちが下だ、ここが床なんだ、そう思って足をつこうとしても、ずぼあ、と水上へ蹴りを繰り出してしまう。シンクロナイズド的にはそれでいいのだろうが、今はシンクロってる場合じゃない。

 駄目だ。顎が外れている今の僕には助けなんて呼べないし、方向感覚だって狂っているし、無駄にシンクロナイズドしてしまうし、もうどうしようもない。絶望的だ。だいたい人に助けを呼ぶ時点で間違っているような気がしないでもない。僕の部屋で起こった惨事は僕自身で解決すべきだろう? もし自分が隣の住人だったら、助けに行くか? 行くわけがない。そんなの無視して朝立ちした息子をさすり、痙攣しているはずだ。ああ、僕は本当にこのまま死んでしまうのか。誰にも知られず、誰にも看取られず、靴下と和英辞書を咥えて、一人、寂しく、魚のえさになってしまうのか。嫌だ。そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。死んで、死んで、死んでたまるか!


「レッツゴーーーーーーーーーーーーーーー!」


 僕は無意味に前向きな言葉を叫んだ。レッツゴー、だなんて、この状況でどこにレッツゴーするのか、自分でもよくわからなかったけれども、無性に叫びたい気分だったのだ。当然というべきか、僕の声は水にかき消されてしまった。しかし僕はもう絶望してうつむいたりはしない。生きるのだ。僕の口から発生した大量の泡が、ある方向へと一斉に向かっていくのが見える。「あそこだ!」目を、これでもかというくらいに見開く。「あそこに、行くんだ!」

 僕は渾身の力を振り絞って身を起こそうとした。上下左右、これで間違いない、そう信じて、足を踏ん張る。するとわりとあっけなく僕は立ち上がれた。久方ぶりの酸素を吸い込みながら、いまだ助かったことが信じられずに立ち尽くす。ふと、笑いがこみ上げてきた。こんな簡単なことだったのか、生きるか死ぬかなんてことはこんなに簡単に自分で決められることなのか、と。窓の外の雨はもうやんでいた。もう少しすれば床上浸水も引いていくだろうし、雲の隙間から晴れ間も見えてくるだろう。笑いながら僕は股間をさすった。また快感に打ち震えるあまりぶっ倒れて溺れてしまうかもしれない。しかし今の僕にとって、少しも恐ろしいことではなかった。


MOON GOLD
「雨にうたえば」 from 『MOON GOLD』
the pillows' 3rd album.